薄光





逃げて逃げて、最終的に千翁が駆け込んだ先は、名も知らぬ色町の、ありふれた
遊郭だった。突然の珍入者に、控えていた女郎衆が自然と寄ってくる。
「あれ、見世開きはまだでやんすよ」
はじめに声をかけてきたのは、恐らく彼女が太夫なのだろう、美しく髪を結い上
げ、黒地に蝶を染め抜いた着物を纏う女だった。彼女は千翁の風貌に一瞬驚いた
ような表情をしたが、すぐに顔付きを変えた。
「──手前が拝見致しまするところ、何か訳ありのご様子。宜しければお話だけ
でも伺いやしょ」
「理由は話せば長くなるんだが、一週間、否、今晩だけでもいい、匿って欲しい
んだ、」
千翁が皆まで云うより前に、太夫は白魚のような指を揃えて顎に添え、艶(あだ)
っぽくしなをつくって形の佳い眉を顰めた。
「困りやんしたねェ──お力になりたくとも今宵は手前共も手一杯、御嬢の相手
が出来る店子は居らんのでありんす」
だがその言葉を聞くや否や、走ったために乱れた上等の着物の裾を叩いていた千
翁は、既に踵を返している。
「そっか、それじゃァ仕様がねえ。他を当たるよ。邪魔したな」
駆け出そうと千翁の脚が地を離れた、まさにその時、太夫があっと声を上げた。
「お待ちなんし、御嬢。嗚呼、かすが、かすが」
千翁を呼び留めた太夫は女郎衆を振り返った。
「なァに、帰蝶の姐さん」
応えたのは、絹織物の金の髪に、匂うような色香を纏う天神である。太夫はもう
一度彼女の名を呼んで、
「たしか、ねえ、松寿は、──ほら、先頃遣り手の婆ッ様が拾いんさったあの奴(
やっこ)は、今宵は非番じゃな?」
訊かれた天神は少し考える素振りを見せたが、やがて表情を綻ばせた。
「流石は姐さん、妙案を云うね。あれならば確かにお誂え向きだ。男郎と云え、
此方が買えぬ道理はありますまい」
そこで千翁は漸く、この見世が男郭も兼ねていることに思い至った。よくよく見
れば、奥に控えている禿(かむろ)たちの中にも、男童が混ざっている。
「でも、善いのか、その彼は非番なんだろう?」
「構わやせん、構わやせん。ちょいと頼み込んで、日を替えて貰いやんすよ」
困った時はお互い様と云いましょう、と云うその間にも、太夫はぱんぱんと二度
手を叩いて自分付きの禿を呼び、千翁を案内するよう言いつけて、
「御嬢、今何時で?」
「え──ああ、もう少しで七の字を回るところだよ」
「おや、嗚呼、もう直ぐ見世開きだね。皆の衆、支度じゃ、支度じゃ」
千翁が懐中時計の針を読み上げた途端、女郎衆が騒ぎだす。
ざわめきの中、千翁は番台に一晩の金を払い、禿に手を引かれて細い階段を昇っ
た。並ぶ女郎部屋を見送って、通されたのは郭の奥の奥、描かれた大和絵も豪奢
な襖の前である。
「御客を連れて参りやんした」
禿が静かにそれを開き、中の光景に千翁は思わず息を呑んだ。格子が嵌った丸い
飾り窓の傍ら、曲線美を描く三ツ足椅子に、品のある深緑色の着流しをさらりと
纏い、真っ直ぐな茶色の髪を風に遊ばせて、揺らめく蝋燭と表通りから射すガス
灯の明かりに照らし出された、年の頃は千翁よりも少しばかり上だろうか、目元
の涼やかな男が座していて、千翁の目には、あたかも一枚の絵画のように映った
のである。
絵画の主人公はフイと此方に視線をくれると、
「──今日は非番の筈だが、もしや我の記憶違いだったか」
佳く通る美しい声であった。男郎と云うからにはおそらく陰間だろうに、落ち着
いた中には高貴ささえ滲み出ていると、千翁は心中でそう感じた。
「いえいえそうではありませぬ。しかし太夫の姐さんが、今宵一晩此の御方の御
相手をせよとお申し付けで」
「──帰蝶がな。ならば仕方あるまい、だが高く付くと云っておけよ」
「承知。では、手前は此れにて失礼致しやす」
一礼をして禿が去った後で、男はしなやかに椅子から立ち上がり、美しい摺り足
でつうと歩み寄ると、未だ立ち尽くしている千翁の足許に膝をつき三つ指を揃え
て、先程とは一変した態度と口調で云った。
「今宵御相手仕る“松寿”でありんす。この様に見苦しい姿でのお迎え、何卒御
容赦くださいやんし」
そのさまに、戸惑ったのは千翁である。なにしろ頭のなかで、松寿は禿にしたよ
うな横柄な態度で自分に接するものだと思い込んでいた、否、そうであれば善い
と云う、在る種の希望を持っていたのである。彼が客に対して接し方を変えるの
は当然と云えば当然のことなのだが、千翁の的外れな希望は意外にも、一瞬の後
に叶えられたのであった。
動くのを忘れたかのような千翁に顔を上げた松寿が云うことには、
「さあ、何時まで其処に突っ立っている気だ?それとも無垢なる姫君は、この様
な下賤の場所は好まぬと仰せかな」
彼はにやりと笑みを浮かべると、もと居た窓辺に戻っていってしまい、千翁は苦
虫をしこたま噛み締めたような顔をするほかなかった。
なにしろ千翁は、長曾我部家──それはそれは由緒正しい、ばかに格式張った、
誉れある華族、それも侯爵の位に叙せられた──の御令嬢と云う肩書き(千翁に云
わせれば、肩が凝るだけのもの)を、不本意にも掲げていながら、その実生まれ持
った肉体と精神は、紛れも無く男の其れなのだ。幾ら綺羅綺羅しく飾り立ててみ
たところで、その(公然の)秘密を万人に隠すのは不可能で、一目見て気付かぬ者
はほんの一握り。当然松寿も感づいて、だからそう皮肉ったのだろう。
しかしよくよく考えてみれば、松寿とて女の真似事をしているではないか。そし
て彼もおそらくは、進んでこの様な職に就いている訳ではあるまい。千翁は可笑
しくなってきて、思わず(不躾にも)声をたてて笑い、どかどかと座敷に上がり込
むと、松寿の肩をぽんと叩いた。
「俺たち気が合いそうじゃねえか、なあ!」
それは、一種の同族意識だったのかも知れないが、その時から千翁は松寿に対し
て漠然とした好意を抱き、また松寿が、何の反応も示さない代わり肩に置かれた
手を振り払おうとしなかったことも、少なからず千翁を増長させたのは確かだ。
彼は上機嫌で寝床に転がり(本来“そういうこと”をする場所なのだから、予めそ
れがしつらえてあるのは当然である)、ひとりでぺらぺらと色々のことを話した。
松寿は専ら聞き役に徹し、尤も、聞いていたかさえ怪しかったが、千翁はそれで
もう十分だったのだ。ずっとそうしていて、松寿が口を開いたのは結局、千翁の
不揃いな髪について、ただそれだけだった。
「その髪、」
と松寿が切り出したとき、千翁はてっきり色のことを云われるのかと思った。と
云うのも彼の髪は、この国の人間にしては珍しく、月光を集めて織ったかのよう
な銀色をしていたのだ。
しかしその意に反して無愛想な男朗は、その髪は自分で切ったのか、と問うただ
けだった。
「え──まあ、うん、そうだけど」
面食らいながらも千翁は答えた。
「これは、親父と喧嘩して……この年になってもあいつは俺を男として扱ってく
れなくて、それで、もういい加減、頭にきててよ。で、髪も、あいつの命令で伸
ばしてたんだが、当て付けに目の前で切り落として、家飛び出して来てやった」
当然、切ったあとを整えている余裕など無かった。酷い有り様になっているのは
当たり前である。千翁は戯れに毛先を指に絡めて弄んだが、松寿は興味を失った
ようで、それきり黙りこくっていた。



‡To Be Continued...‡





無茶苦茶な設定ですが、今後更に無茶苦茶になること請け合いですので乞うご期待(笑)