目を覚ました千翁は先ず、見慣れない室内に驚き、次いで、家出先で遊郭を訪れ ていたことを思い出した。 体を起こすと、何かがずり落ちた。見れば、紗(うすぎぬ)が掛けられている。千 翁は、自ら掛けた覚えがなかったので、松寿が気遣ってくれたのだろうと推測し た。礼を云おうと室内を見回したが、あの深緑の着流しを纏った美丈夫は何処に も見当たらない。夜明け前の薄い光が差し込み、そこだけ闇を切り取ったように 見える丸窓の脇の三ツ足椅子にも、その姿は見受けられなかった。何処か別の部 屋に移ったのだろうか。 兎に角、夜が明けたからには見世も仕舞いだろう。千翁は、(これも準備の良いこ とに)傍らに用意されていた桶に張られた水で軽く顔を濯いでから、部屋を出るべ く立ち上がった。すこし肌寒く感じたので、紗を拾い上げて肩に羽織った。これ は、見世を出るときに返せば良い。 襖を開き、長い廊下に出る。まるで鏡のように磨かれた床が、爪先に冷たさを齎 した。足音を忍ばせて、それでもきしきしと幽かに軋む音を聞きながら、千翁は 緩寛と階下に向かった。 たん、たん、と調子を取るように階段を降りると、既に控えていた太夫が、千翁 に気付いて軽く会釈をしてきた。その仕草も何処か気だるげで、察するに彼女は あまり眠っていないのかも知れぬ。 「おや、御嬢。随分早いお目覚めね」 口調も昨晩と変わっていた。営業時間は終わり、ということか。 「お早う、太夫。昨日は助かったぜ」 「そんな、お礼云われることはしてないわ」 フフ、と笑う太夫に、千翁は本当に助かったんだ、と念を押しながら紗を手渡し て、 「これ、勝手に持って来ちまった。悪いが松寿に返しといてくれよ。あいつ、何 処探しても見当たらねえ」 そう言付けて、朝の静寂の中にも夢の残滓が漂うような、閑散として見える表通 りに一歩を踏み出した。朝だというのに心なしか薄暗く感じるのは、この町の太 陽が夜にこそ昇るからに違いないと考えて、両手を挙げて思い切り伸びをした千 翁の背に、凛とした声が届いた。 「行くのか」 振り返ると、そこには案の定、階段を降りてくる松寿の姿があった。暫しの沈黙 の後、彼は千翁の目の前まで来て立ち止まると、「行くのか」ともう一度同じこ とを繰り返した。問い掛けですらない、それは感情を伴わぬ単なる言葉の形だっ たが、千翁はその中に確固たる意図を汲み取り、思わず訊ねていた。 「居ていいのか?」 「行くあてが無いと云ったのは貴様だろう」 呆れたように松寿が云う。確かにその通りで、千翁には反論のしようがない。も とより反論の必要すらもない。 だが、躊躇もあった。果たして甘えて良いものか。千翁は、己が世間知らずであ ることを自覚している。彼らに迷惑を掛けるのではと思うと素直に頷くことは出 来なかった。 千翁が考え倦ねていると、突然、ばん、という音がその場を支配した。 「ああ、もう、まどろっこしい!おまえが考えてることは何となく判るが、最初 は誰だってそうだ、だいたいこっちが良いと云ってるんだから素直に甘えろ!松 寿も松寿だ、居て欲しいのならそうとはっきりと云ったらどうだ!こいつ鈍いよ うだからきっと伝わらないぞ」 驚いて、二人して檄が飛んできた方向を見れば、やはり上階から降りてきたらし い天神──確か昨夜、太夫がかすがと呼んでいた彼女だ──が、机に手をついて 肩を怒らせていた。物静かな印象を与える容姿に反して、なかなか荒っぽい気質 のようだ。しかし、言葉の端々に彼女の不器用な優しさが滲んでいて、千翁を安 心させた。傍らで、本心を明かされた松寿は苦い顔をしてから、開き直ったよう に云った。 「光栄に思え。我が貴様を使ってやる」 態度も口調も不遜だが、さらさらとした髪の隙間に覗く耳が赤くなっていた。だ がそのことは気にも留めず、居場所を得た千翁は感極まって松寿に飛び付いた。 自分よりも体格のいい千翁を受け止めきれずによろける松寿を、千翁は 「俺、頑張るからな!」 などと云いながら、今度はぎゅうぎゅうと抱き締めた。苦しげに呻く松寿は、今 度こそ、その顔までを赤く染めている。 何時まで経っても松寿を解放しようとしない千翁に、天神が 「見ていられるか」 と呆れかえって去って行った辺りで、流石に太夫が止めに入った。 「さあさあ、何時までもじゃれている暇はないわよ!ええと──」 太夫が云い淀んでいる原因に気付き、ぱっと松寿から離れた千翁は慌てて名乗っ た。 「そう。千翁と云うのね。それじゃあ千翁、貴方は先ずその髪を整えなければ。 松寿、頼んだわよ?」 微笑みながらそう云って、太夫は優雅に踵を返して見世の奥に消えた。 ‡To Be Continued...‡
まだまだ続く。